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 伊賀・地名の由来 ◇◆

昔は伊勢国に属していましたが、飛鳥時代 (680年頃)に伊勢国から分かれました。
もともと、この地方は伊賀津姫(いがつひめ)という人が治めていたので、国や郡の名前になったと言われています。


◇◆ 上野・地名の由来 ◇◆

平安時代に栄えた小田(おた)村の一部が背後の高地に集落をひろげ「上ノ小田」と呼ばれるようになり、やがて「上ノ」という固有名詞に変わったと言われています。
「上野」という地名がはじめて文献(書物)に出たのは南北朝時代と言われています。


◇◆ 上野城 ◇◆

平安末期、平楽寺・薬師寺などの寺院が建てられましたが、400年後の天正9年(1581年)織田信長により焼かれ、その跡地に筒井定次が城を築いたのが始まりです。
慶長13年(1608年)藤堂高虎により新たな城作りが行われましたが、慶長17年(1612年) 五層の天守閣は台風で崩壊し、元和元年(1615年)豊臣氏が滅んだこともあり普請(建設)は中止となり、その後天守のない城として幕末を迎えました。
現在の天守は、故川崎克氏が私財を投じ昭和10年(1935年)に再建したもので「伊賀文化産業城」と命名されました。
  (ちなみに通称は伊賀上野城、別称は白鳳城)

 公園入り口の碑には、次のように刻まれています
天正13年(1585)伊賀の国主となった筒井定次が文禄のころ、三層の天守をもつ平山城をここに築いた。
筒井氏国替えのあと、慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が入国して、これを西方に拡張し雄大な本丸を築き、さらに外濠を画して典型的な近世城下町を建設した。
天守は慶長16年 作事なかばに台風のため倒壊し、再び建てられることなく廃藩となった。
現在のものは、昭和10年の復興である。




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俳聖殿  ◇◆

俳聖松尾芭蕉翁を顕彰するために建てられたもので、木造檜皮葺二層の塔建てで、初層は八角、二層は丸型となっています。
二層の屋根型は翁の旅笠、初層は衣を表しています。
昭和17年(1942年)故川崎克氏が私財を投じ、建立しました。




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