紀北町側から馬越峠を越え、
墓地を縦断すると、この道へ出ます |
左の北川橋をわたる
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ここから中井町と林町の通りを南進(旧国道42号と重複) |
林町の南詰めの手前の左角に・・・
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旧林浦の在蔵(ざいくら)
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紀州藩に納める年貢米や、飢饉に
備えた備蓄米などを収納した蔵 |
在蔵 (ざいくら)
これは旧林浦の在蔵です。郷蔵(ごうくら)ともいいます。
江戸時代、紀州藩へ税として納める米や、囲米(かこいまい、飢饉に備えた備蓄米)などを収納しました。
江戸幕府 265年の歴史において凶作は130回、飢饉は21回にのぼります。
当地は田畑が少なく、食糧米の九割方を他所からの移入米に頼っていました。
加えて農漁民の多くは零細で凶作・不漁に伴なう困窮が甚だしく、藩は救済のためいろいろ苦心した政策を採用しました。
囲米制が宝暦三年(1753)に開始されたときから、各漁村の在蔵に囲米が納められ安政五年(1858)にはこの蔵に十石の囲米が収納されていました。
囲米は飢饉や困窮のたびに繰返し放出され、人々を餓死から救いました。
この在蔵は津波を避けるため石垣地盤の上に建てられており、間口五間、奥行四間半、木造土蔵造り一部二階建の建物です。
近代に修築された形跡がみられるものの、在蔵の遺構を伝える貴重な建物です。
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庚申祠 (山見茶屋跡)
馬越、八鬼山の両峠を見渡せる
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やのはま道入り口までは
旧国道42号と重複 |
途中 中川をわたる
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中学生時代は蟻の行列みたいに
この道を歩いたっけ
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信号の先を左折し、いよいよ
やのはま道
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やのはま道の案内板
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矢の浜庚申 |
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案内板 見っけ
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案内板の字が消えているけど・・・
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これが 「天台鳥薬」
(てんだいうやく)なのかな? |
天台鳥薬 (てんだいうやく) とは、
クスノキ科の常緑かん木で、古来から強壮、神経痛などに効果のある漢方薬として使用されていた。
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広い道を横切り、まっすぐ進む
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この先 右へカーブ
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「雁木(がんぎ)の家」の案内板
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現在 人は住んでいないようです
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雁木 とは、隣りの屋根からのしぶきや、台風・大雨の時の横降りを防ぐために軒下に付けられた木の覆い
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今度は左折
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左側に何かあるー
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かわいい かまど、灰釜(はいがま)
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枯れ草・枯れ葉・ゴミなどを燃やし、
肥料にする為の灰を作る焼却釜
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細い道を横切り、案内板に従い進む
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江戸時代 敷地の境界に積まれた
野面積の石垣
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右折
元の古道は、ここからまっすぐ八鬼山まで伸びていたが、石油タンク群建設時(昭和38年頃)に消失したそうです。
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軽トラックの先に案内板が見える
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左折
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広場を左に見て、進む
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右折
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石油タンクが見えてくる
右折
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石油タンクを左に見て、進む
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この信号を左折して矢の川をわたり八鬼山へと続く。
雨が降りそうだったので 八鬼山上り口まで行かず、ここで引き返す。 |
信号の右手前にある
「矢浜宝篋印塔」
(やのはまほうきょういんとう)
”篋”の字の変換に苦労した
最後は手書き入力したけど・・・
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尾鷲と南北朝の時代が繋がるなんて、全然知らなかった
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峠を歩くのもいいけど、こういう道も楽しいね。
(峠越えするほど体力無いしw)
今も生活道として町の中に残る道を地元の皆さんが整備したそうです。
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